普者
2019.03.20 Wednesday 23:58

どうも役者(ヤクシャ,やくもの)にも留まらない。役者だと言うと嘘をついたような感が残る。

 

普者、フシャ,ゆきもの、とでも言おうか。

 

それを言ったら元も子もないという程の普遍的な事をやるもの。

それは既成概念を破壊するが、新生に繋がる。

 

私の命あることは世界のために。

| yutasoul | プロフィール |
2019.03.19 Tuesday 15:48

当電子版の満十年を前に一千番目の記事を迎える。

年間百件、月平均八件強、週にして二件。

物事の本質を実践の中で見つめ源泉は尽きず三日で纏める。

 

走り書き程度の非公開記事や告知も含むから単純には言えないが。

 

お付き合い頂いて来た方に感謝。

| yutasoul | プロフィール |
日々刻々、死に死にて、生まれ生まれて明るく
2019.03.11 Monday 17:40

よく、今日が最後の日だとしたらどうするかとか、今日が最後の日であると思って生きてみろとか言うけれど、そう言われても具体的にどうするか見つけ難い時もあるだろうから、それではまだ少し大雑把ではと思うので。

 

その提言の目指したいところを詳しく考えると、もっと日々刻々とどうするかを論じるところまで行くといいだろうなと思う。

 

人間はどこかに歪みを強いて暫定的に成立させている場合が多いのではないかと思うのだけど、地域社会が安定していると「暇だ」と言い出す。

暇、余暇が生まれると趣味という概念が成立する。

暇とは生命の危機に追われていれば存在しないのだから尊いもので、そう考えると有意義な事に使えばよかろうものだけど、使い道が見つかっていなかったり空虚であると時に苦痛となり、暇を潰せるという事に価値が生まれたりする。

先だけを見ているとそこに至るまでの時間が気になるもの。

 

暇の根本的で生産的な克服の仕方には二つはある。

 

一、己の個性を生かす道、ライフワークを突き詰めると日常全て、ある人が暇と言うその時間すら、世界と自然と対話する中から学習が出来るので、そうした永続的な暇の使い道を得ることで暇が無くなる。

 

二、(一の発展形とも言えるが) 吟楽の手法・禁吟でも述べたが、自分をただ自由にするのではなく、自分が余計な事をしないように自分に対して禁止・抑制をかける事で却って必要な本物の実感ある運動を発見していく方法。まさに今、動きを呼吸すら止めようとします。それをずっと常にやる。死(止)に死(止)にて、そして刻々と本物の命の運動を発見し生まれ生まれていく。

これをやるとそもそも暇という認識自体が存在しなくなる。

なぜなら、生きるとは本来、運動すること自体だから。その運動が各個人の個性を顕す命の運動であるならば、全てが命の仕事となっており、暇という概念が無くなる。

ここから言えるのは、余計なことをやるほど暇というものを認識するのであって、暇つぶしをやらないほど暇そのものを認識しなくなるということ。

 

 

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3.11に寄せて、生ける私なりに奉じる思いを込めて。

| yutasoul | メイン |
男性性やら女性性やら
2019.03.11 Monday 05:58

私自身にとってはあまりそれで悩む事は無いから完璧ではない知見かもしれないけれど、あくまで今目につく所見を書き残したという位のものですが。

 

いまLGBT等が大きく顕在化し、その背景にはそれを抑制してきた人間の社会がある事からすれば、これは人類がありのままの自然として受け止め超克するべき悟りを求められている命題の一つなのでしょう。

 

一般的に男性性とか女性性とか言われているものは、実際は人それぞれで曖昧なものだし、男女の身体の平均的な違いによる精神の傾向はあるだろうけども、人格の完成や悟り等の方向性としては男性に生まれても女性性を、逆のパターンも然りで両方を備えることが推奨されているわけで、

 

じゃあ男性性・女性性というものの本質はと考えると、一般的な言葉の使われ方や世の実相を見ると、男性性は"理性ばかりで触覚等の身体性を忘れて辛くなりがちなこと"で西欧型文明社会ほどそのような男性型が多く、女性性は"触覚等の身体性の感性が高く現実が見えていること"と言えるのでは。

 

男性が多くそうなってしまいがちなのは、元を正せば根源的に子供を産めないからでは。それなのに何十年もの命を与えられて、やれることが守ること、付随して強きこと、それを最重要とみて現実と乖離した頑なな価値観が固まっていって、男らしさと対して女らしさみたいな文化が出来てしまっていくし、

不自然で不安な社会になるほど、弱きものが人任せな論理として「男のくせに」などと言って尻を叩いたり、性のイメージ幻想が作られていく。

そして更にその幻想を憧れのイメージとしてメディアが打ち出し、憧れという欲をネタにしたビジネスの世界を成立させるために意図的に強固にしていったりする。

そしてそんな他者が勝手に作ったらしさに囚われて、そこに自分が合わないからといって自分は駄目だと思って挫折していく人まで生まれる。

 

だから、例えば身体が女性に生まれて心が男性だったからといって、そんな作られた男性性に嵌まろうとしなくていいのだけれど、女性でないということは男ならこうだろうというふうに自分も周囲も反応するから一様に極端に記号的な男らしさに行ってしまったりする。でもそれもまた不自然であることが多いでしょ。

 

もう少し女性性の話をすれば、本質的には、最低限ここを押さえていれば幸せだという事がわかっている、故に数字や表面上の事にいちいち狼狽えないという事、だとすればそれは女性性というよりもう普遍的な人間性の一種でしょ。

 

私はなんだか、誰が身体と心の性が違おうが、男らしいとか女らしいとか、本当にどうでもいい。いい意味で。人それぞれでいいでしょ。それが自然なのだし。

いま結果として人間は増えすぎているから、子孫繁栄よりもスローガンとして普遍的価値が高いのは、それぞれの個性をより生かして生きることでしょう。誰もが子を持てるわけではない状況の場合もあるけれど、そもそも持たない一生があっていい。

 

他者の性に関する事とか、有名人の浮気を騒いだりとか、自分には関係のないどうでも良いことを騒ぐのは結局空虚で暇なのではと思う。

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自由意思のあれこれ
2019.03.09 Saturday 09:23

心身二元の立場に立っていると、完全な自由意思への志向というか、意思の完全な自由は無くてはならないはずだという、時に感情的な位の欲求もあって、そこへの思慕や推奨を元に絶対的輪郭が整理されて社会と価値観が出来ていたりするけれど、それによって孤独等も生まれていて、

 

現実として心が身を通して世界と繋がっている以上、嫌でも潜在的なレベルから独立している完全な自由意思など無いということになるし、

むしろ完全な自由意思が必要であり良いものなのか、そもそもそんなものは存在し得ないのではないか、繋がっていて更に個の個性によってそれぞれが咲くことが完全な自由なのでは、ということが言えるのではないか。

 

だとすれば、

それぞれの個が宿命を背負って生まれ、訪れる運命の上でどのような価値を描くかは、世界との繋がりを感じられていれば、調和しながらに自分の納得いくところという道が、具象的にではないにしろポイントとして自ずと存在し、その流れに乗るところに真の意味での自由を感じられる自由意思があると言えるのではないか。

その中に本当の自分の自己実現、やりたい事というものがあろう。

 

それは孤立した自由ではなく、繋がりという或る意味での制約もあるという意味を込めるなら、自由意思というより自在意思とでも言うべきか。真我と言わないならば。

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言葉は所詮言葉
2019.03.08 Friday 06:42

私は大体基本的に、自分の言葉を世界の様々な視点から見て妥当性があるかを検討しながら選択し、対話の際は相手の語彙やコンディションにも合わせて調整して語るけれど、完璧にやれているつもりもないし過信しない。

 

過去の人間の遺産がそうであるように、今を生きる人、私のそれも完璧でなくともヒントを含み、そういうものが後の人に妥当性を認められるところだけ使われていけばいいのだと思う。

 

言葉は所詮言葉で、そこには言葉に託す意味の個々人の違いがあるから、普通そのことをわかっているべきで、私の語彙に置換すればこの人はこういうことが言いたいのかなとか、この言葉はあの言葉に換言できることだなとか咀嚼したり、そもそも他に狙いがある可能性や背景も考慮するべきで、

だから額面通りに受取るだけではなく、その言葉の奥に他の可能性を見ておくことが基本的に推奨されるし、つまり言葉に囚われないように、

言葉は真実を記述するための不完全な道具に過ぎず真実との間には常にズレがあり、真実は結局実践によって感じることであって、言葉にいちいち惑わされず落ち着いていれば良い、と一定の距離感をわきまえておくと良いわけだが。

 

だから人間が無駄な争いというエネルギーロスを減らし、生産的な和する文化を育む基本としては、言葉の奥に潜む肯定的な価値を発見できることが真の知性だろうなと思う。

 

 

例えば、"自然派"という言葉にしても、哲学と文学と衣食住の場合では込められている意味が違うし、使っているその個人によっても理解や含意が違ったりするので、

彼我の言葉の使い方に意味のズレを予め想定し検知する視点が基本的にあるべきで、

時間があるならどういう意味での自然派ですかと訊ねれば良いし、口を挟むべき状況でないようであれば前後関係から含意を測っていけば良い。

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感性整理
2019.03.07 Thursday 15:05

 

人間の感性の在り様を整理したモデル案を作成した。

"感性"を"何事かを感じる性能"とし、そこから理性も広義での感性と前提することで、"感性の在り様"と称する。

そのため差別化として"触覚感性"としているのは一般的に理性と対置して感性と呼ばれる範囲の事とする。

触覚感性と重ならない"理性"の領域は、私の言うところの理性感性の部分。心身二元論の領域。

 

人間という生物に推奨される悟りの境地は★の位置になろうかと思う。私の言うところの、感じて考える感性理性の部分。心身一元論の領域。

触覚感性をベースに"真理を神とする"姿勢をとることで宗教と科学が交差し、それを理性によって整理し明晰な知見とする処。

 

また、感性と理性は重ならないものとして捉えられがちで、かつ感性と感情が混同されることで感情は理性とは重ならないものと思われがちだが、感情と理性それぞれが感性の一部に過ぎないという視点から以下を導く。

 

a: こんなことはあってほしくない、あってはならないという感情から、見ないことにする整理の仕方をする理性の領域。感情理性。

b: 触覚感性を備えないために宗教と重ならない科学の領域。

黒塗: aの行程を経た後、その整理内容を信奉に位置付けた領域。ややこしいことになる。

 

 

日常的に使っている"主観"と言うのは、上図の中の少ない領域に生きている事、"客観"と言うのは触覚感性の多くの領域に広く生きている事と言えそうだ。

 

 

こうして整理していると、一般的に対置されているものの配置構造を変えてもいいのか?と思われることもあろうけれど、そもそも明治以前の日本には言葉自体が存在しなかった概念を西洋から輸入して造語ないしは当て嵌めた言葉が多いのだから、

日本や心身一元論の感性には合わないものや、その感性の視点から見れば違ったものが見えてきて然るべきだという事が言えるでしょう。

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全ては身体表現 - 音楽編
2019.03.04 Monday 03:00

あらゆることが身体表現だと言われて、すぐにそうだなと思い至らない人がいるでしょうから。

 

料理ならこの調味料を足して味見したら身体がイイネ!と感じたとか、感じないからもう少し足してみたとか、そうやって身体を通して感じてどうするかを変えているのだから、それを身体表現と言うのです。

 

(また、非生物であっても石なら石としてその身体を運動し表現しているし、生物が触れればそれは随意筋の通わぬ身体として触覚情報から精神も変容させるし身体表現に参加する事になる。この見方も含めて)

 

だから全ては身体表現であって、音楽も当然身体表現なのだけど、

 

人間の音楽という分野に於いて不思議なのは、踊るビート作りははっきり言って体幹のダンスの達人だからこそ最高のビートが作れるのであるにも関わらず、そうでない人が理論ばかりで作ろうとしたり体幹のダンスを極めようとしない事です。

(体幹のダンスとは、言えばインターロックとその応用ステップにリズムの崩し位のシンプルな範囲で良い)

 

だから体幹のダンスを極める気が湧かないなら踊るビートを作らなければいいのに、既存の踊るビート例に付随する他の情報に惹かれてとか、こう見られたいとか、不純な理由からやってしまったりする。

そういう不一致、つまりやる気の所在が行為そのものというより他のところにあってしかも本人がその事に気づいておらず、果てはその行為そのものを好きなのだと思っていることすらあるという人間の歪みは、日本の身近な例で言えばテレビ番組「のど自慢」などでもよく見ることが出来る。

その不一致故に行為が不純で不自然だから上手くいかないということも、その瞬間自体はかわいい一事とも見れるけれど。

 

純粋で自然で本道はというならば、

どう見られるかよりも、やりたいことをやること、という事になるのではないか。

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遠隔触覚形成
2019.03.04 Monday 01:10

遠隔で触れずして触覚的な認知を形成するということ。

 

離れたものの形を指先などの身体でなぞって、その情報を自分の身体感覚に置き換え、移し取る。

 

天高く行く雲や星、大気のなす青空の天球ですら、天空の点をなぞり距離と移動を認識すれば、身体そして脳内に触覚、体性感覚としてその広がりが構造・運動性・質ともに形成されていく。

 

目だけで見るのではなく、触覚という視点で見るというときに、直に触れるだけでなくここまで動員する。

 

慣れれば指等でなぞらずとも、目で見る眼球の動きでなぞり、眼球周辺組織の移動の触覚情報によって可能だろう。

 

触覚で聞くというのも、音を触覚情報として受け取れば元のものの運動情報が触覚としてわかるし、

そのように触覚体験を中継地点として置換すれば、触覚で書くとか読むとか、嗅ぐ味わうといったことも出来る。

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心身誤差科学 - 紙一重の差
2019.03.03 Sunday 23:55

心で思っていることと実体たる身の、実態の誤差に関する心身誤差科学という領域が成り立つだろう。

平たく言って、理性が独り歩きしていると誤差は開き、触覚的に吟味する感性を備えているほど誤差は縮まる。

心身二元論であれば誤差は開くし、心身一元論であれば縮まると換言しても良いのではと思われる。

 

ただその誤差の違いを実感として認識しコントロールするには、心身の繋がりとコントロールに関する高度な実践経験を要するので、研究に入る敷居が高いかもしれない。

 

実感として、時間と空間における変化量の精緻な、紙一重の差としてそれは現れる。

たかが紙一重されど紙一重、物事の境界に於いてそれが大きい。

絶妙なバランスで直立している卵が右に倒れ出すか左に倒れ出すか、そこにあるのは紙一重の精緻な差。

実生活のレベルで言えば、立ち上がる等の重量移動の際の合力生成によるベクトル操作、片足立ちでのバランス検知能力等、運動の中で現れるし、

そのままその個体の全認知能力の基本的誤差に影響する。

 

これは人類の中で身体能力が優れていなければいけないとかいう相対的な事ではなくて、例えば歩けなくても呼吸に伴う胸郭周辺組織の移動や、顎や舌や食物などの口腔周辺組織の移動、眼球周辺組織の運動等に於いてさえそれを問うことが出来る。

 

ここから、理性でラベリングした点で跳び跳びに切り取ってしか時空を認識していない断続時空認識と、そうではない連続時空認識との違いが生まれる。

 

これを理解している人間ほど、まだ理性が独り歩きしがちな各領域に於いて、紙一重で気付かれていない事柄を明かしていけるのではないかと思われる。

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