新ブログ「宇流抄」へ
2019.05.01 Wednesday 00:00

当ブログ十年を迎え、立上げ当初のベースデザイン時とは心境にも隔たりを感じ、この度あらたなブログとして以下を開設致しました。

 

宇流抄 https://uryumiura.blogspot.com

 

これに伴い、私の号を三浦 宇流(みうら うりゅう)と発したく存じます。

 

 

当ブログをお読み頂いた皆様、誠にありがとうございます。場をお借りしたJUGEM様にも、寿命の限り無き寿限無の名のもと、感謝致します。

これからも当ブログは、データベースとして残させて頂きたく考えております。

引き続き何方かの、お役に立てば幸いです。

 

新ブログも生の全てを吟味し心身を繋ぐ文化、吟楽、それを実践により炙り出したる随筆として綴ってゆきたいと思っております。

2020年の吟楽「一矢」公演も控え、これからもどうぞ宜しくお願い申し上げます。

 

 

三浦 勇太あらため、

三浦 宇流

| uryu miura | ほか告知 |
悟性に語りかける〜半々への気づき
2019.04.14 Sunday 07:00

(悟性:この語本来の禅における「ごしょう」としての、人が悟り得る素質の意味で。)

 

 

私は人の悟性に語りかけ続ける。

 

ところで、喧嘩両成敗と言うけれど(片一方によるところの大きい場合もあるけれど)、多くの不和というのは、双方ともに努力できるところがあったという見方によればどちらも悪いとも言えるし、双方ともにそうなるのは致し方なかったのではという見方を深めればどちらも悪くないとも言える。

どちらも足りない、とは一貫して言えるかもしれない。

 

そこにはやはり、本人の努力の問題と、それだけで何とかするには大きい既存の社会文化の問題があって、そのどちらの問題も認識し手を加えていくべき半々のものだと思われる。

恵まれていれば本人の努力次第で何とか出来ない事は無いとも思うけれど、本人の努力だけで何とかならないからといって、自分を責めなくてよいと思う。

 

人間が不安を遠ざけるべく安心の側に回ろうとする事の集積、都市化に伴って社会文化の歪みが大きくなり、組織化された宗教のようなものが必要性を増したりしてきたのであって、いま私が田舎に暮らしてやはり思うのはそれらの傾向が少ないなという事。

都市化する事で自然による不安が減ったのと引替に、自然の繋がりを喪失して「意味の不安」が増したのだな。

 

結局、「当たり前」や「常識」の文化、生活環境によるライフスタイルの誘導、縛り、檻に閉じ込められているし、それがまた隣人と同じ程度の苦労で同じような当たり前の暮らしが出来ていないと嫌だと思わせてしまって、更なる避難の必要を生んでいたりして。歪まずに生きにくい状況が出来てしまっている。

だから一人一人が全てを疑い実践熟考するという、真面目で真っ当な、当たり前の事を当たり前にやれない状況があって、だから困っているんであって。

最早全体的に、普通そこまで真面目にやれなくても仕方ないし、なんとか誤魔化し誤魔化しやろう、となる。

都合のいい言い訳には飛びつくし、事件が起きても「まったく考えられないですね」と締められるけれど、本来的には誰もが同じようになるかもしれないと漠然とでも考えられるところまで、心身の繋がりの喪失による歪みというものへの認識が深まらなければならないのではないか。

ただただ易きに流れるのではなく。

 

善というのは相対合理に基づいて人間がまだ育てている途上の文化なのであって、性善説も性悪説もなく、誰もが善の文化の修まりと評価視点次第で、良く生きようとする行いがどちらにも転ぶのでしょう。

 

 

自分の心身等、既にあるものを耕して豊かさを得られる事を見せて伝えていきたい。

誰かを責める必要もなく、共通項を強いる事もせず、やれる人からやる。

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たびたび
2019.04.05 Friday 02:01

 

暫し福島に暮し。

龍庵を結び。

 

 

ライン作業というのは、そこで労働する人間の働きすら機械化する。

自然な心身の緩急を待たない。

これが人間と地球環境の負担と引き替えに豊かさを得るということか。

そのままでは何かを犠牲にして偏在する豊かさだが。

そこで得た金を人類のための作品に換える。

まみれた中から選別する等、最後まで機械化出来ずに残るであろう3Kの人手仕事に、ヒトの業の縮図を見る。

すぐには変われぬ人世のためにも。

現代の衆生のための行と言えよう。

 

すべての人の歩みを数ならぬものとは見ず、宇宙史の中での位置、意味を見つめたい。

 

 

 

 

| uryu miura | クリエイション |
ヒトの存在した意味
2019.04.04 Thursday 03:32

ヒトという種の生物が滅んだとしても残り得るような、宇宙に存在した意味は何かと思うけど、

 

予断や余計なことをしてしまう事の出来る知能を得て、自ら生んだ歪みを正す知恵を探すという一見無駄な事をして、

 

種を超えて弱肉強食以上の平和や幸せを構築出来る意識と知恵を創出すること、その資質を得たところにあるのではと思う。

 

それが他の地球生物や地球以外の生物にも伝播し、役立てばいいのではないかと思う。

 

私の歩みや吟楽は、その一端として。

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是非とも伝わってほしい事
2019.04.01 Monday 15:50

さて今、余計なことをしないように、身体が自ずと動き出すことだけをするように意識して、

 

すると息を吸って吐こうとするので、それにはOKを出し、身体がやるに任せる。

 

この文字を打つ手が自ずと動くなら、やるに任せるし、そうではないなら打たずに、画面を見ずに放っておく。

 

メッセージが届く。メッセージを開く手が自ずと動くなら、やるに任せるし、そうではないなら操作せずに放っておく。

 

トイレに行きたくなったらトイレに向かう。

 

自分を自ずと歩かせるエネルギーが低下したら、また動き出したくなるまで立ち止まる。

 

要はこうした生の全てが身体表現であり、それを吟味し突き詰めるところに或る悟りがあるのであって、それを吟楽という文化として私は立てようとしている。

 

普段そう思って生きて頂かなくてもいいけれど、全ての人の全ての行いが、もれなくあなたの行いの全てが身体表現であり、吟楽たり得、私はそのことを突き詰めているのです。

世界のために。

 

上記の事がその範疇なのだから、スポーツも音楽も、絵画も執筆も、料理も家事も、事務も大工仕事も、全てが身体表現であり、吟楽たり得るという事です。

それを知らず別々なものとして捉えている時があっても仕方ないけれど。

私の話をダンスや芝居の話ですよね?と思わないでください。

さすがにそろそろ、どうか。

 

ダンスや芝居は勿論のこと全てをひっくるめた身体表現、言ってしまえば生、人間の普遍的な悟りの手法の話をしているのです。

そこが伝わっているかどうかが、私の意思を根本的に理解して頂けているかのポイント。

そこが伝わっていなければ、私の意思は根本的に伝わっていないから徒労感が凄い。

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せぬ為
2019.04.01 Monday 12:37

(余計なことを)しない、やらないという事が、人間には時に難しい。やらないだけなのだから、行為自体は簡単な筈なのに。

何かやったほうが良いんじゃないかと思って、やり過ぎて乖離を発生させてしまう。

 

やらないで居られるようになるために稽古をするようなもの。

"やらないようにしてから身体が自ずと動き出すもの"への経験、信頼、受入、それが個の内に構築されるまで。

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能楽との対話
2019.03.29 Friday 15:20

世阿弥氏が「幽玄」「花」「しおれ」を言葉に残したことの素晴らしさ。

それ故に能が人類芸能史上、最高の宇宙的空間の広がりに到達したと言われることもある。

しかし今もって神のように崇める精神的な姿勢というのも考えものではないか。

科学的に具体的に、一般化して能から離れなければ進歩していない。

 

「しおれ」と日本武道の「残心」に見る同一性。

それはどちらも、表層的な意識で「する事」を断続的に繰り出すのではなく、深層の連続的緩急をもつ触覚的意識で運動することで、その連続性が「残心」を生み、表動作にあたる急の後の緩により「しおれ」が存在する、という同一運動次元の大切さについて言及していると言えるのではないか。

また、その運動次元自体が「せぬ事の美」、印象として「幽玄」、結果として「花」を生む。

このときフローしているけれど、忘我なわけではないのでポンコツでもない。

 

具体的に身近な例で言うと、いびきをかいている途中で半分目が覚めていびきが続いている時や、あくびが終わらないうちに他の事を考えてみたりとかした時に、身体は勝手に動きを続けるのがわかるでしょう。

そのように、頭で表層的に意識する事と、身体と結びついた深層で起きている事との間には、ズレがある事にまず気づくということ。

そして、身体が自ずと動き出すことだけ動くようにするという、深層の触覚的意識で動く実践方法を押さえること。

そこに集中することで脳のワーキングメモリ的に、表層的な意識をする脳機能は抑制され、本当に必要なことだけが見えてくる。

それが出来ればいいだけの事、と言えないことはないのではと。

 

その実践が出来たときには、ああこれが「幽玄」「花」「しおれ」だよね、「残心」だよね、「動的な瞑想状態と悟り」でもあるよねと感触として感じられる。

 

こういう知見が、例えば世阿弥氏の言葉を限られた人間にしか到達できないものと位置付けてしまっている人の輪からは生まれないのではないか。

私はそういう人の輪の中でやらず、一人で素早く何度も生死を繰り返すように廻って廻っているうちに、こうなった。

私は、一階から二階へ階段を上がるのに、身体が自ずと動き出さない限り幾度も立ち止まり、数分かけて昇ったりする。万事そんなふう。しかしこれが生物本来の姿ではないか。

 

厚い神秘で彩られた芸術論と比べて、つまらない位に神秘の入り込む余地が無く、淡白で申し訳ないような気もしてくるが。科学ですから。

普遍性を高めるため、能の作品のストーリーコンセプトや、美術の形式、身体技術の範囲限定は外し、意識系に関する要素を抽出し、それを更に色々な事へ繋げ広げる。

この姿勢も、吟楽が能楽とは異なるものとなり存在するべき、より普遍的に一般化するための、強度を持って位置を占めるポイントとなるのではと思う。若しくは能楽も吟楽として行う構図が可能だ。

何を若輩が、と思う方もあるかもしれないが、間違っていれば一笑に付せば良いだけであるし、簡単に誰もが実現出来る可能性があるのだからやってみれば良い。そういう提言です。

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やる気の微積
2019.03.26 Tuesday 23:11

自分のやりたいこと、と言うけれど、それは必ずしも自分に合う完成した選択肢が世に用意されているわけではなく、ポイントとして存在し、それを見出して各々の答えを探していく事になる。

だからポイントが見えてくるまで、今やりたいと思える事をやっておくのは良い事だと思う。

 

例えば現時点で好きだと感じることのある具体的なものが、介護、舞台制作、等であるとしたら、なぜそれが好きなのか、どこに好きだと感じるのか根本的なポイントを探す。

(改めてものの根本一般の考察方法も載せておくと、考察の対象について、なぜそうなるのか?と"なぜ"を繰り返して掘り下げ、これ以上ない所まで行き着くと、それが対象を生み出している根本的な原因ということになる。)

 

そうすると、"人の心に携わるのが好きだから"とか"人と人の関わりを調整するのが好きだから"とか、ポイントが見つかってくるだろうし、ポイントが見つかれば逆算してそれを満たすものを新たに探したり作ったりする事も出来る。

 

また、やる気のポイントというものの実態を更に時間軸上で詳察すると、そこには、やる気のエネルギー量曲線と加速度があり、エネルギー量の平均値変動とは別に、"やる気加速度"の増減のバイオリズムがある。

人間の苦しみは、やる気エネルギー量の多少よりも、"やる気加速度"が負の値の時に止めずに無理にやるから生まれるとも言える。

ここまで分析すれば、微分積分的な考え方が出来るように思う。

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人心慰む寄す処の前後
2019.03.26 Tuesday 03:28

個としての生は誰も死をもって終わる。

ヒト故の歪みから来る負の感情、それ故によすがを求めるが、結局、自ら死にたいという想い、その重さその一点において共有出来、あなたも大変だったねという想いがあればそれは満たされるのではないか。

以下のような事を押さえていれば。

 

人世には、字数を割いて同じ事を別な言い方で繰り返し強調し、何を言いたいのかと時間を割いて読み切っても結局断定的な恨み言を述べただけの言説というものも存在する。

それは大抵、本人それぞれが気の済むところまで流布しないと終わらないのかもしれないが、私が言いたくなるのはそのエネルギーの生産性を高められるのではないかという事だ。

より建設的に普遍的な教訓として活かすために、その恨み言の出来事を、人類規模でのパターンに類化し相対化する事によって、自分の視座を動かし易くするという事。

恨みの事象発生時間だけでなく、それを恨み言でしかないものに固定し続け更なる時間を取られるという二重に忌々しい状態を脱するために、自らステップを進める。

 

常に人はみな人類の業を受けた最前線で苦しんでいて、それぞれの努力が人類の業に対する超克の歩みになっている。

 

私の前半生は言わば泣きのハードロックめの心境であったが、それは似た状況があった人には共有できても、そうでない人に直ぐには共有できない、部分的なものに過ぎないという事、個の好みとか、宇宙全体の中の部分に過ぎない自分の要素という構図を意識しておく事が大切ではないですか。

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振返り
2019.03.24 Sunday 11:36

(当ブログの十年に渡る初期と現在の変遷についての解説ともなる。)

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個体としての自分の生、身体表現の歩みを振返ると、

 

(個体として生まれる前からの精子、卵子、親の遺伝子、そこに関与した物質等の身体表現は置いておいて。)

(物心つく前の身体表現もここでは置いておいて。)

 

一期/4才〜15才:猫と過ごす中で脊椎運動を学習。潜在身体表現期。分裂した家庭環境により人類の知能故の根本的な歪みを俯瞰。

 

二期/16才〜25才:歌舞芝居の身体表現と出逢い、これは一生の言動の中で何時でも出来るし、これによって満たされる事が出来れば何にも縛られる事は無いと感得。人類の知能故の歪みは完璧を求めてしまう事と認識する。

 

三期/26才〜現在:より普遍的な価値ある事をしたく、他者のために知見を噛み砕く事を進める。表面上が歌舞芝居でなくともあらゆる事が既に身体表現であるならば、それはつまり各々自分の裡を整理し個性を活かす中で、触覚的意識が心身を繋いでいる事に気づけばいいというだけの事とも言える。その一連を文化として「吟楽」と呼称。二期の知見を包含一元化している。

 

 

よく、皆が笑えば良いとか、非言語コミュニケーションを活性化すれば良いとか言われて、21世紀初頭「繋がる」が氾濫しているが、それも世界を良くするけれど、根本的に良くする事を考えると、それらだけでは人類の知能故の根本的な歪みによる負の元には働きかけられていないと思う。

 

これを言い換えると、

大体の人にとっては何もしないよりはいきなり他者と繋がる事をやったほうが幾らか得るものがあるかもしれないけれど、

根本的にはそれより先に、まず自分の心と身体を繋いで満たされる事、その結果として他者と繋がる事だろうなと。

それが出来ていないと、自分自身が思い通りにならなくて満たされないとか、いきなり他者と繋がっても他者が思い通りにならなくて満たされないという芽が摘まれていないのだろうなと。

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